スタッフのぼやき

 

最近テレビで取り上げる話題の下調べなどで、電話取材などを依頼されることがほんまに多い。
こちらの見解を聞いて、採用できそうならコメントを録ろうか、原稿を監修してもらおうか、という感じで聞いてくるのだけれど、それに対して私たちはいちいち、1つ1つ、だいぶ真剣に回答している。
なぜかというと、それが当然だからだ。
それしかできないからだ。 

例えば、今日。某TV番組のリサーチ会社と名乗るところから、



「赤色が食欲を増進する色だと言われていますが、それは正しいことなんですかね?」と聞かれた。
 私は神か?
そんな問いに誰が「そりゃそうです、みんなの食欲を赤は増進するんですよ。正しいです」と答えられるんだ。と内心思いながら、答えられることを答える。
 確かに、そういった側面を赤色が担っていることもあるかもしれないけれど、だからといって調子が悪い時に、赤色の肉なんて食べれたもんじゃない。
「そういった側面を赤が及ぼすことは間違いではないと思いますが、一概には言えません。」と言うのがお約束になる。

 私たちが言えることなどはっきりしないことで、言えたことはマニアックなことで、誰も耳を傾けないかもしれない。
それでもいちいち話すようにしているのは、赤い色が色彩現象の中ではもっとも能動的に働きかけてくるエネルギーを持っている色だということ。
 そして質的な充足を示す色彩であること。
赤い色の人間たちが肩を組んでこっちに向かって歩いてくることを想像してもらったり、 今度は青色の人たち同じように歩いてくることを想像してもらったりする。
 黄色のボールと赤色のボールを手の上にのせてもらったり、それをにぎってもらったり手の上でぽんぽん投げてもらったりを想像してもらう。
聞いているうちに受話器越しの声も「はぁー。はぁーそうなんですか。」となってくる。
これでいいのかわからないけれど、きっとそれでいいんだと思う。
 色は、ちゃんとかんがえてもらうことの方が、感じてもらえることの方がきっと喜んでいるだろう。
私たちなんかより、もっとはっきりくっりき答えてくれるところが他にあるだろうから、それが必要ならそちらに問い合わせてくれればいい。

 色彩を感じるのは私たち一人一人の心で、 私たちは自分自身の感覚を使ってものを知ることをしなくなってきた。
そしてその感覚はほこりをかぶって無価値なものとされてしまう。
それが回復されていない限り、本当の意味で色の力を知る、色の効用を考える、なんてところの端にもかからないんだろう。

 赤は私たちが形成してゆこうとする意欲を象徴する色彩だ。
 私たちは赤らんで、赤味を帯び、生命をみなぎらせ前進したり後退したりしてゆく。
 葛藤することにも赤があるし、傷を受けることにも赤がある。
赤のような力は生命に予め与えられているものだと、少なくはない学者たちが言葉にして残している。
絵を描くときも赤色がないと、寒々しく、力のない絵になってしまう。 

そうこうしている間にまた1本電話がかかってきた。
今度は、青の問い合わせだ。とほほ。