ピンクのこと

先日某テレビ番組から取材を受け、ピンク色のことを考えていた。



ちょうど桜が咲いていたことが記憶に新しく、
でも問われたピンクは、彩度の強いピンク、一般的にショッキングピンクと呼ばれるようなピンク色ことだった。

全身をもしこのピンクで覆っている人がいたらどうだろう。
自分がもしこのピンクを全身身に纏うとすればどうだろう。
もはやピンクパンサーやないか。
色のことを尋ねられたとき、しのごの言うより、まず想像することが必要だし、その中に入り込んでみることが必要だと先人たちが残している。
私たち自身が、大宇宙に生かされている小宇宙であるとしたら、
予め全ての自然現象が与えられ、
自然が宿す色彩現象においても、私の内には全色在るものと考えたなら。
私の中を通って、ピンク色の本質に近づくことができる。ということを
忘れてはならないと思う。
まずは私の中のピンクを開かなければならないし、私がピンクに心を開かなければならない。

ピンクは周りを包むだろう。まるで胎内に子を宿し、守るお母さんのように。
そしてピンクを手にする人は、包まれる体験が不足しているのだろう。
人は愛したいし、愛されたい。そのことのために多くの人間が悩んでいる。
ピンクがそのことに関する繊細で傷つきやすい何かを持っていることが想像できる。
切り捨ててゆくという性質よりは、抱きかかえていく性質の方が強い色だろう。
養育的な態度が優勢である。批判する態度より肯定的な態度を持つことができる。
社会性が優勢ではないが、個性に対しては理解を示すことができる。
ピンク色を日常的に手にする人は、誰かに認めてもらったり、褒めてもらったりする体験が圧倒的に不足しているのかもしれない。
自信を持つこと、自立すること、社会性へと向かうことのために、この経験がバネとなる。

潜り込んで見えてくるのは、赤に白が混ざって生まれるピンク色だった。
赤の役割や白の特性を鑑みながら、ピンクが生まれていく過程を辿る。
人間の肌の色彩もここを通る。

どれだけ言語化してみたところで、
いつの時も色彩以上には色彩を語ることができないことを
私たちは了解していなければならない。