「私を知る」現場から


「私」を知る
ということを、色を通して楽しみ考える現場が
同志たちの手により生まれようとしている。




それは、イチゴジャムを作って赤色のことを感じる現場かもしれないし、
好きな色や嫌いな色のことを考えてみる現場かもしれないし、
コーヒーを飲んで、深いところで落ち着いて考える現場かもしれない。
色は「私」を高揚もさせるし、落ち着きもさせる。

「私」という存在は、思いもよらず他と繋がっているから、
色を塗る、というような非言語の空間を与えられると、
着込んできた服を、少しだけ脱ぐような感覚になる。
ある程度、「素の自分」ということで、向き合わざるを得なくなる。
それが色彩や音楽のもつ、ありがたい力だと思う。

「私」を知って、何が楽しいんだ。何が得なんだ。とやじる人にも出会う。
「じゃあなんでここに来るねん」と内心ツッコミたくなる気も起こるけど、
かつての「私」もその一人だろうし、
これからの「私」もその一人かもしれないことを、思い出せなきゃいかんなと思う。

服を脱いで素の自分でなんか、いられない時だってある。

戦っている時に、鎧は脱いではいけない。
その鎧をぬぐかどうかは、その人の自由だし、
そのタイミングも、その人に必要なときがある。

現場を開いていると、
その方の何がここへ連れて来たのかということを考える。
その方の「自我」はそれを望んでいはいない。
でも、その方の「魂」がそれを望んでいるのかもしれない。
そんなことを思いながら、
やじる人のそばで、ただ立っているしかない。
その方の物語は、ここに来たことを含めて、日常で続いていくのだから。