緑と人間

緑と人間


私は、もう半ば無意識に、光を「善」、闇を「悪」とするような人間に、時代とともになってきたんだと思う。それは誰の責任でもなく、もし、誰かの責任であるなら、同時に自分の責任でもあるんだろう。
近代科学に、たくさんの恩恵を受けてきたことも知ってしまった。そこに感謝の気持ちもある。

そんな近代社会に育てられた私の、「自然」とのつきあいなど、浅いものだと正直思う。
でも、色を大切に考えることで、自然の摂理にふれ、世界を奥底で統べているものの重要性が、少しずつ見えるようになった。
と同時に、人間という存在自体が、近代化とともに貧困化してきたことは、看過できないことだと思うようになった。だから、この色彩心理学から発信することを続けている。

今おそらく、その人間存在が、ウィルスの猛威によって、掻き混ぜられている。
私たちに何を学べというのだろう。




病床で、人の「会いたい」や「ありがとう」や「助けて」が集っている。
声をかけあい、励ましあうこともままならない。
ただ、祈りが巡る。
自分本意な買い占めを、やめてみる。
医療従事者や感染した人を看病する人の立場になって、
本当に巡るべきところに、物資が巡るように。
そんな互いのことを考えることの1つ1つが、
危機的状況に面して、個人レベルを超えて地球レベルで起こってきていることを感じる。


真っ赤に染まったウィルス分布世界図は、恐ろしい。
でも、たった1つの見方で見られるためにここにあるのだろうか。
「私たちが何を見るか」、その自由までウィルスに奪われてしまってはいけない。

自然においては、赤が広がるその裏側には、必ず緑色が呼び求められるという。
ウィルス感染が赤だというなら、それにより生まれる緑はなんだろう。
私たちに芽生えている新芽のようなもの。
それは、赤を含んで超えて、未来に育むべき「何か」として、きっとこれから根付いていく。

ここまでの猛威をふるわれる中で、ものごとを自然に見ることは難しい。
今の時代は、その視点が、個人に委ねられている。
ぐっと踏ん張って、見るもの見られるものの針を左右に振りながら、
じっとものごとを見据えなければならない。

緑は「没個性的」だと言われている。
その没個性的な色を、私は素晴らしい色だと知れば知るほど感じる。
積極的に没個性的でありたいぐらいだ。
緑が生茂る、カモフラージュされる中、
秘匿の中でしか、育たないものがあるだろう。
特別ではないことの中で、安心することがあるだろう。
それを私たちはなんとなくわかっている。
傷つきやすい生命が、経験を重ねることは、緑のもとでこそできる。
緑という個性の中でしか、育てられない大事なものが私たちにはある。

ゲーテは、緑の中に、相容れない分極の均衡が宿っていることを
自然を徹底して観察することから見つけた。
そしてその均衡は、いずれ破られるためにあることも。
二つに別れたものを1つに繋ぐことは、
いつの時も私たち生命全体の使命であり、物語だろうから。

とりたてて今の世界や、これからの世界が、
自然の生命であるという土俵で、つながっていなければならないように感じる。
様々な目に見える格差も、問題もあるけれど、
国境も年齢も性別も職業も階級も超えて全部とっぱらって、
1つの生命として集い、みなが同じように感じる痛みから、回復へと結んでゆく。
私たち人間は今、みんなで緑なんだろうなと、私は思う。

私たちが何を見るか、何を学ぶか、は、私たち次第だ。