どこまでも2極が作る中間世界で生きているのが、私たち生命だと思う。
善いと思っていることも、きっと完全に善ではない。
善人といると、私の中の悪が、
悪人といても、私の中の善が奮い起こされていく。
きっと、私は善人であり、悪人でもある。
「未熟な私」に、何度も出会う。
未熟な私は、善か悪か、この世に2つしかないと右往左往している。
そのうち、善にも悪にも、
見分けがつかなくなるものにも、人にも、自分にも出会うのに。
ふとしたきっかけに、ヒョイっと善と悪がひっくり返ったりして。
なんていたずらなしくみを、我々は持たされているんだろう。
悪について見ていくことは、本当はそれ自体が甚だ難しい。
悪に立つこと自体が、意識という光を育てて生きる人間の性質上、困難だろうと思う。
私たちは誰だって、光に向かって産道を通って生まれてきた。
青をさわり、意識化していく作業を現場で開く。
途方もなく広く、不安な、
なのに憧れに似た気持ちもおこる現場になるのが、不思議で。
包まれていたかと思うと、次の瞬間には、
私じゃなくなりそうな力に包まれる。
その奥の奥に、きっと悪も、いるのかもと思う。
圧倒的なまでの始原には、きっとなにもかもが潜む。
私たちはある意味で、善と悪を両親にして、生まれてきたのかもしれない。
私という存在が、善と悪との間で振り子のように動いている。
特にコロナ騒動のある今も。目立ってくる。
私たちは時に善人であり、時に悪人である。
善と悪を織りなしながら生きることの、リアルな毎日。
マスクを買い占めてくれるな、とする自分と
マスクが欲しい自分とが拮抗しながら。
ネガティブな気持ちに、私たちの全てが覆われてしまわないように。
何ができるだろう。
色鉛筆やくれよんを手に、
地球がもたらしてくれる自然の絵を、祈りながら描くことくらいだろうか。
震災の時もそうだった。
地球が大きな風邪をひいた。それは私たちのせいでもあるのだろう。
治癒していくにはきっと時間がかかる。
でも、きっと、治る。その深さにくぐらせて、きっと治っていく。
私たちも。